『日本中央の碑』
その存在を知ってから一度行ってみたいと思っていた謎多き石碑を見てきました
国道4号線をみちのく有料を過ぎて野辺地方面に向かう途中の左側に
『日本中央の碑歴史公園』の看板が見えます
そう、ココはあのウネウネ貴公子(Pさん命名)こと克裕さんのホームタウン東北町!
先日、城山公園の繭子の像を見にわざわざ我が町を訪ねて頂いたので
私もお邪魔させてもらいました~(・∀・)ノヨロシク~♪
中へ入るとゆったりした駐車場があり
『日本中央の碑歴史公園』という公園になっています。
そこの階段を上っていくと…
…『日本中央の碑』が展示されている日本中央の碑保存館があります!
保存館の周りの広場にはいくつか歌碑があり…
「つぼのいしぶみ」として都に伝わり、多くの歌人に詠まれたのが分かります
早速中に入るとすぐのところに1.5mほどの卵型の石が鎮座しています!
それほど大きい建物ではないけど中は意外や(失礼)立派な造りになっています
この石は、なんと東北町の有形文化財第一号に指定されているそうです。
そしてこれがその『日本中央の碑』です!
1949年(昭和24年)6月21日、当時甲地村であった石文集落近くの赤川上流で千曳在住の川村種吉により発見された、
高さ1.5mほどの自然石に「日本中央」と刻まれた碑である。
発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物のつぼのいしぶみであるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。これは、袖中抄の記述とは一致するが常識とは違う「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、坂上田村麻呂が現地に到達した伝承がないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形も鑑定に影響を及ぼしている。
「日本中央」という文面の問題は、喜田貞吉は、千島列島を考慮することで問題は解決するとした。一方、日本という名前を蝦夷の土地に使っていた例もあり、蝦夷の土地の中央であるから「日本中央」であるという説もある。津軽の安藤氏も日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある(この場合、よみは『ひのもと』となる)。
また、坂上田村麻呂はこの地に到達していないが、文屋綿麻呂はこの地に到達している。
現在、日本中央の碑保存館の中にこの石碑は保存されている。(Wikipedia)
よ~く見ると石に確かに『日本中央』の文字が…掘ったっていうより何かで傷をつけたような感じ…
まあ一説では征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐で陸奥へ進撃した際、石碑に弓の筈で
「日本中央」(ひのもとまなか)の文字を彫った…とされてるのでまあこんなもんか
館内には色々な資料があったけど私の頭的にはコレが一番わかりやすかったりして…(^^ゞ
まあ実際のところ、その真偽についてはいまだ謎のままなのだが…
別にコレが本物の『壺の碑』であろうがなかろうがそんなのはどうでもいいんです!
本州最北のこの地で『日本中央』の文字は何を意味するのか?
ほんのいっとき古代のロマンに思いを馳せワクワクするだけでも
ここへ足を運ぶ価値はあると思うのだが…日本中央の碑歴史公園
・所在地:青森県上北郡東北町字家ノ下タ39番地の5
・開館時間:9時~16時
・休館日:毎週火曜日・年末年始
・駐車場:あり
・入場料:無料
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